内容は詳しく覚えてないのですが、時雉がちびだった頃の夢を見ました。やいのやい。夢でお邪魔したやい。起きた時は覚えてるんですけど、覚醒していくにつれて掴んでたはずのものが溢れていくように記憶から抜けていって、ただちびだった頃の時雉の夢を見たという事だけが残りました。いまも猫たちに囲まれて幸せであると思います。ただ、今いる猫たちは外での青春時代で、ちび時雉との時間は私と麿白の初めての育児。それが幸せというよりはもう戻ることのない愛しき日々だったのだろうと振り返って思います。人は誰しもそういう記憶があって、その喪失も併せて抱えて生きていく。喪失が大きなものであっても、そう思える事が生きてきた証でもあります。夢でなくても、いずれまたきっと会えるはず。夢の余韻でそんなことを思ってると、そこには琥麦がいます。琥麦がいなかったら、またちび時雉の夢は違った感触になってたに違いありません。琥麦はずっと椅子に座った時にしか甘えてこなかったのですが、最近はそっと添い寝をしてくるようになりました。その夢自体、琥麦が見せたものなのかもしれません。//pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js
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愛しき日々の夢 20250730

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